ここにあるもの
「何もない」が「ある」
何もない場所には、「何もない」が「ある」──。
とある漫画の登場人物のセリフだ。この逆説的な言葉の言わんとすることはつまり、様々なモノで溢れた街で過ごす現代人にとって、通勤ラッシュの満員電車、繁華街の喧騒、交通渋滞、加えて、まるで常に監視されているように24時間つながり続けるSNS、そういった、知らず知らずのうちに私たちを疲弊させているモノたちから、すっぱり開放された空間が、如何に貴重なものであるかということだ。私たちが、ふいに海を見に行きたくなったり、田園を縫って走る鈍行列車に乗ってどこまでもアテのない旅をしたくなるのは、日常生活の中で継続的に感じているいろいろなしがらみから自由になる空間、つまり「何もない」場所を求めているからであろうが、その「何もない」という状態は決して完全な無を指しているわけではない。
打ち寄せるさざ波を前にして砂浜に佇んでいるときも、空を切り取って蛇行する稜線をゆっくりと目で辿っているときも、当然ながら、その空間には海水があるし、山も木もある。しかしそれらは私たちにわずらわしい社会的な責任を課すものでもないし、心の内に土足でずかずか踏み込んで干渉してくるような存在でもない。きっと私たちは「無」を求めているようで、その実、「程よい有」を求めているのだろう。「何もない」が「ある」というのはそういうことで、モノに溢れた現代社会を生きる私たちの欲求を絶妙に捉えた巧い表現だと思う。
まじでなんもないじゃん
さて、いま私の目の前には、見渡す限りの大草原が広がっている。北海道は沙流郡日高町、太平洋に面した、空気のおいしい町である。表現の推敲を無視して体の内側から自然に湧き上がってきた言葉をあえてそのまま使うなら、「まじでなんもないじゃん」。
もちろん完全な無ではなくて、草は生えているし、その草をゆるやかに食む牛もあちこちにいる。こちらに到着して3日ほどはその景色が新鮮で、私はなにかユートピアめいたものを見出していた。しかし一週間も過ごすと、なにかおかしい、言いようのない違和感を感じるようになった。朝、目が覚めてカーテンを開けると、大草原のはるか先の道路をゆったり進むトラックが見え、その先にうっすら水平線が覗いている。なんと、毎朝だ。それもそのはず、この雄大な牧草地こそ私の仕事場であり、日常生活の場なのだから。
「無」こと「程よい有」が現代人には必要だと述べたが、言うまでもなくそれは都会ないしは市街地に生きる人々にとってなのであって、しかもそれは一時的な欲求に過ぎず、一通り「無」に晒されれば、彼らは名残惜しみながらもリフレッシュを終えてそれぞれの街へ帰っていくものなのだ。いわゆる「観光」がもたらす「非日常感」によるストレス解消効果は、まさにその目的地が日常過ごす空間ではないから得られるもので、それぞれの人間の「日常」によって「非日常」は様々なのだ。結局、われわれが求めているのは「程よい有」ではなくて、単に「非日常(感)」なのだ、という、つまらない大学の講義のような結論に導かれてしまった。
競馬を深く知る
私の新しい日常に話を戻そう。私は大学4年間を埼玉の都心部近くで暮らしていたから、この新天地はまさしく「非日常」に溢れていたのだが、前述の通り居住するとなると話は別だ。新人研修と称して栗東で2週間近く過ごしている間、実際に門別へ行ったことのある先輩などから、「あそこは本当になにもないよ」と聞いてはいた。ただ、実際に暮らしてみると想像以上であった。私は普通自動車の免許を持っていなかったこともあり、皮肉にも、この開放感たっぷりの町に閉じ込められてしまった気持ちである。(現在この町に駅を置く鉄道は不通である。)
次に、この町にある希望をひとつ挙げよう。ここでようやく競馬の登場である。ここには道営のホッカイドウ競馬、門別競馬がある。この門別競馬では、中央競馬では味わえない、生の競馬を見ることができる。
生で見れるというのは無論、目の前で馬が走るというというのではない。それなら中央競馬のほうが大きくてきれいな施設から見ることができる。この地で生で見れるのは、競馬の仕組み、様々な関係性である。生産者、馬主、調教師、運営、お客さん……。ここでトラックマンとして働くということは、競馬開催を取り巻く数多の関係性の橋を管理する仕事を担い、そして必要に応じて橋を改良・増築していくということである。これは馬産地で開催されるという関係者の距離の近さによる、門別競馬ならではの仕事であるように思う。中央で同じようなことはやりたくともできまい。
もちろん、この仕事は一筋縄ではいかない。まず現在門別競馬がどのような仕組みを持って成り立っているのか、知っていなければならない。私はいまこの段階である。大先輩である高倉克己氏の教えに助けられながらではあるけれども、日々得られる情報は競走馬・競馬の本質に関わるものばかりだ。そうして勉強していくことによって、私の競馬に対する意識がどう変わっていくかは自分でもわからないけれど、今は競馬のことを深く知っていくのが意義深いことだと思っている。
さらに面白いはず
まじでなんもないこの土地にも、競馬の本質を知ることができる競馬場がある。つかみどころがないと感じたこの土地と私の間にも、関係性の橋ができつつあるということだ。あとは、なるべく早く運転免許を取得し、休日には遠方の名所へ足を伸ばしてみたいものだ。私を札幌へとつなぐ沙流川橋が落ちないことを祈るばかりだ。(台風の影響による落橋で通行止めの箇所が現在もある。)
桜花賞の観戦記で私は、競馬は難しいと書いた。しかし、門別の競馬はそのとき考えていた以上に難しい。加えて私は、競馬は難しいからこそ面白いと書いた。それが正しいならば、門別の競馬はさらに面白いはずである。現に今、そんな予感がしている。
板垣祐介