競馬記者にも長いキャリアの中で忘れられない日本ダービーが、名勝負がある。そんな思い出のレースを第84回日本ダービー当日まで、ひとつずつ振り返っていきます。
~トラックマン思い出のダービー~
松沢昭夫(美浦・厩舎取材班)
1984年 第51回 優勝:シンボリルドルフ
3、4コーナーで鞍上が必死に鼓舞するもシンボリルドルフは反応せず。しかし、直線に入ると自らハミを取って加速し、先行馬を捉えて2冠達成。ルドルフが手綱越しに「まだ動くのは早い」と語りかけ、岡部騎手が「ルドルフに競馬を教わった」と述懐する人智を越えたエピソードは多くの競馬ファンの胸に刻まれた。「当時は岡部幸雄騎手のお手伝いを始めた時期でした。いろいろと苦労もした分、岡部さんが勝ってダービージョッキーになった瞬間は本当に嬉しかったですね。私にとって最も記憶に残るダービーです」 |
松下佳弘(栗東・厩舎取材班)
1998年 第65回 優勝:スペシャルウィーク
松下TM「武豊騎手、待ちに待ったダービー制覇」 1998年、スペシャルウィークは中団、馬群の中ほどから抜け出してラストは後続をちぎる一方と圧勝でした。入線後、ポンポンと愛馬を労う武豊騎手、そして「みたか、やったぞ!」のガッツポーズ。その後も勝ち星を積み重ねて、今や日本ダービー5勝の金字塔。 |
藤原有貴(美浦・編集)
2010年 第77回 優勝:エイシンフラッシュ
本命は後藤浩輝騎手が手綱を取っていたローズキングダム。馬券も勿論、ローズから購入。直線半ばでローズはエイシンフラッシュに交わされてしまい、着差とゴールまでの距離を考えると逆転は不可能と思える状況。馬連は当たるだろう。でも、我慢できずに「後藤!差し返せ」と自然と声が出た。周りからは無理に決まってるだろ、という失笑が漏れた。結果はエイシンに軍配。けれど、目の前のレースに対するこの熱さを忘れないようにしたい。 |
ネットショップの中の人(栗東)
2003年 第70回 優勝:ネオユニヴァース
重馬場、後方で内に包まれていたネオユニヴァース。4角で荒れた内を嫌い外を通る馬が多くなったことで、道が開けそこから力強く抜け出して見事に二冠達成。M.デムーロ騎手がゴール後、田中勝春騎手の頭をはたいた皐月賞と合わせて思い出深い。 |
野口彰(美浦・調教取材班)
1976年 第43回 優勝:クライムカイザー
この年、断然の1番人気に支持されたのは無敗の皐月賞馬トウショウボーイ。レースでも軽快に逃げるトウショウボーイ。これを直線に入って半ば出し抜け気味に交わしたのがクライムカイザーと加賀武見騎手。最後はトウショウボーイが詰め寄ってくるが、この追撃を何とか封じ込めて押し切った。ライバルの脚質を考慮し、癖を見抜き、勝つにはこれしかないという戦法がズバッと嵌まった。加賀さんの一世一代の素晴らしい騎乗。 |
長島緑朗(栗東・カメラマン)
2000年 第67回 優勝:アグネスフライト
『ダービーカメラマンになる!』と勝手に名付けた称号を目指し、初参戦したミレニアム2000年の日本ダービー。
弟弟子の武豊跨るエアシャカールとの壮絶な叩き合いで、食いしばる『歯』を見せながら鬼神のような表情で追うアグネスフライト騎乗の河内騎手の姿にダービーの凄みを感じました。
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大石正(美浦・厩舎取材班)
1977年 第44回 優勝:ラッキールーラ
まだこの業界に入る前だったが、何故か妙に自信があったラッキールーラ。馬券はハードバージを蹴って枠連をガッツリ購入。当日は単勝9番人気。レース中はちょうど、植木屋のアルバイトをしていたが、ラジオから聞こえてきたのは「ラッキールーラ先頭!」の実況。思わず力が入ってヨシッ!と思ったが、ハードバージが2着に上がってきてズッコケた。尾形藤吉調教師はこれがダービー8勝目。今も破られていない不滅の大記録。そして優勝した伊藤正徳騎手は父・正四郎さんとの親子制覇を成し遂げた。それから時が流れて、伊藤正徳騎手は調教師に。今は私が取材を担当させてもらっています。いい機会なので、昔話を聞いてみようかなと思います。 |
松本英博(栗東・編集)
1992年 第59回 優勝:ミホノブルボン
坂路で猛時計をマークして、厩舎筋からも絶対勝てると聞いた新馬戦に「単勝」をぶち込んだ。旧中京競馬場の小回り芝1000m。スタート直後に半ば諦めかけたが、直線だけで伝説となるほどの豪快な勝ちっぷり。その時点で、ダービー馬を予感したのは私ひとりではないだろう。競馬は時に「絶対」が存在する。 |
菊池洋行(美浦・編集)
2007年 第74回 優勝:ウオッカ
2007年5月27日。四位騎手の叱咤に応えて馬場のど真ん中から突き抜けてきた紅一点。「64年ぶり」、「史上3頭目」、「戦後初」の牝馬による日本ダービー制覇。その後もライバルと数々の名勝負を繰り広げてきたウオッカが府中のターフで最初に輝いた日。 |
中西弘行(栗東・調教取材班)
1996年 第63回 優勝:フサイチコンコルド
1996年、デビューから3戦目で日本ダービー制覇という快挙を成し遂げた馬がいた。その馬の名はフサイチコンコルド。1年にも満たない競走馬生活を懸命に駆け抜けたその姿に神の馬を重ね合わせて和製ラムタラとも称された。 中西TM「体調不安も囁かれる中で、完全に勝ちパターンだった1番人気ダンスインザダークを差し切った末脚は衝撃的だった」 |
早坂義晃(美浦・厩舎取材班)
2004年 第71回 優勝:キングカメハメハ
当時はレース直後のジョッキーにインタビューするため検量室前に待機。見事に勝利を収めて引き上げてきた安藤勝己騎手に話を聞くと、「普通に乗れば、勝てると思っていたよ」と興奮した様子は微塵もなく、まるで未勝利戦を勝ったあとのような淡々とした口調。日本ダービーだからといって舞い上がることなく、普段と変わらぬ精神状態でレースに臨んでいた勝負師・安藤勝己騎手の冷静さに衝撃を受けました。 |
小林唯生(栗東・編集)
1993年 第60回 優勝:ウイニングチケット
1993年の三冠レースは、皐月賞をナリタタイシン、ダービーはウイニングチケット、菊花賞はビワハヤヒデと3強が分け合う。 ウイニングチケットの鞍上、柴田政人は19回目の挑戦で念願の日本ダービー制覇。レースでの激しいアクションとは対照的なゴール後の放心したような姿が印象的だった。 |
中島誠(美浦・調教取材班)
1988年 第55回 優勝:サクラチヨノオー
皐月賞は少し仕掛けが遅れて、この馬らしさが出なかった。迎えたダービーは鞍上の小島太騎手が4コーナー過ぎに仕掛けて先頭に並びかける積極策。バテない渋太さを生かして最後は一旦、前に出られたメジロアルダンを差し返して勝利。これは小島太騎手の名騎乗。なんと翌日は拳が腫れていたんだとか、私のね。(机を叩き過ぎて) |
谷村晴久(栗東・編集)
1971年 第38回 優勝:ヒカルイマイ
嘗てのダービーにはセオリーがあった。「ダービーを勝つには10番手以内にいなければいけない」、いわゆるダービーポジション。しかし、勝負の世界でセオリーとはいつか破られるもの。実況の「ヒカルイマイはごったの中に入っています」を聞いて絶望、そこから異次元の末脚、そして歓喜のゴール! ゾロ目馬券もしっかりと獲って最も印象に残ったダービー。 |
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TMだけじゃなく、カメラマンとかスタッフのもあって面白かったです。来年は是非、ファンから思い出のダービーを募ってみてはどうでしょう?