皆様お久しぶりです、M.Mです。
今回は神戸の居留地に存在していた競馬場の跡地です。居留地競馬というと日本初の西洋競馬とされる横浜根岸の競馬が有名ですが、神戸三宮の居留地でも短い間ながら競馬が行われていました。
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競馬ブック M.M 競馬があるところにはどこへでも足を運び、JRA、地方競馬場を踏破。2016年には香港にも遠征。JRAは勿論だが、地方競馬が大好物。ただ、馬券はド下手という致命的な弱点を持つ。どうしても競馬に関わる仕事がしたいと一念発起して、2017年競馬ブックに転職。業務で校正など、日々「日本語」と格闘中。 |
神戸港が開港したのが1868(慶應3・明治元)年で、そこに外国人居留地が設けられました。そこで1年目のクリスマスを祝うイベントとして居留地東側の砂利道(現在の神戸市役所のあたり)で競馬が開催されたのが最初とされ、これは横浜根岸での初の競馬開催の翌年にあたります。この開催は大成功を収め、結果としてこの地で定期的な競馬開催が計画されることになります。
翌年にヒョウゴレースクラブが設立され、春にも競馬が行われましたが、この開催はまだ居留地近くの競馬場でした。その開催後、専用の競馬場を作る動きとなり、現在の生田神社の東側の土地を政府から借りて競馬場が建設され、秋から競馬が行われました。公称では1周1040mとされていますが、実際には860mほどしかなかったようで、根岸競馬場の1周1764mと比べるとかなり小さい競馬場であったことが分かります。
競馬場があったあたりの地図を見ていただいても名残はそこまでないようにも見えますが、何となくカーブらしきものは残っています。

▲競馬場跡地付近のマップ

▲このあたりに競馬場があった!?
鉄道各線の三宮駅から徒歩数分、北野坂の直線が当時のホームストレッチにあたる部分で、

▲ホームストレッチと思われる部分
そのまま坂を上って山手幹線と交わるあたりが1コーナーだったと思われます。

▲1コーナー付近
山手幹線に沿って西へ向かうとすぐに繁華街である東門街のゲートが見えてきます。このあたりが2コーナーだったとされています。

▲2コーナー付近
そこから向正面方面を眺めてみると、S字状に道がカーブしています。

▲2コーナーから向正面方向

▲向正面
私は最初にその形状を見た時、「このあたりだと思うんだけど、直線だと思っていたのにカーブしているから当時のコースは残っていないのかな、それともここではないのだろうか」と思ったのですが、それは当時の姿を捉えた写真や当時の地図のようなものを目にすると合点がいったわけです。当時の写真を見るとこのあたりは海側には居留地の建物が立ち並んでいますが、競馬場周辺はほぼ建物はなく、森と平野が広がっています。そこに写っているコースの形状は向正面がS字状にカーブしているのです。当時とまったく同じコース跡ではないかもしれませんが、名残としては十分納得に値するものではないでしょうか。少々歩きますが、元町商店街5丁目にある「こうべまちづくり会館」の前にある案内板に当時の地図と思われるものがあり、そちらを見ても生田神社の東側に「競馬所」という表示といびつな?円形のコース図が見て取れます。

▲生田神社

▲こうべまちづくり会館の案内板

▲案内板の拡大図
S字の東門街を通り抜けると反対側にもゲートがありますが、

▲反対側のゲート
おそらくコースはここまではなく、ゲートの1本手前の筋のあたりで3コーナーを迎えていたと思われます。

▲3コーナーと思われる角
歩いてみてもやはりかなり小さいコースであったことが感じられます。現在、夜の繁華街としてかなりの賑わいを見せる東門街ですが、果たしてここが競馬場だったと知っている人はどれくらいいるでしょうか。
この地での競馬は当初春・秋それぞれ2、3日ずつ開催され、約20レース前後が組まれていましたが、競馬場建設から僅か5年余り、1874(明治7)年の秋開催をもって終焉を迎えます。立地的にはコーナーが急で危険であったということ、また水はけが悪く排水工事が必要であったということ。芝を張ることも検討されたものの実現には至りませんでした。更には1873~1874年の経済状況の悪化による馬主、頭数の減少。そして借地料の支払いの問題。これら様々な理由もあり、神戸の競馬場は短命に終わってしまいます。
競馬場の様子を描いたものはこの近辺にもうひとつあります。JR元町駅前にあるウインズ神戸A館のシャッターです。こちらには当時を描いたとされる「摂州神戸西洋人馬駆之図」があります。

▲WINS神戸A館のシャッター

▲シャッターの説明書き
これを書く段階になってこの図を見ていてふと疑問に思ったのは、居留地競馬として東門街で行われていた競馬は左回りだったとされていますが、こちらは右回りに走って?いるのです。描かれたのは競馬が開催されていた1872~1874年頃とされています。これは元は木版画のようですから、ただ、反転しているだけなのか、反転を見越して刷らなかったのか、レース中ではないタイミングなのか、あるいはもしかすると東門街で行われる前の競馬場を描いたものなのか。最後にちょっと謎が残り、真相はよく分からないままと、少しモヤモヤする結果となってしまいました。もし真相をご存じの方がいれば是非教えてください。







